狭く屈折あり

【 「理想の素晴らしい今ではない何か」と「今の自分」を比べる無意味さについて。 】


あいまいにしか思い出せない単純化された過去の自分を回顧して懐かしむ。
本やメディアで啓発された立派な自己像を夢見てみる。
人の言う、人の常識に翻弄される。

それら、「今の自分じゃない何か」を今の自分に当てはめて、その【差分】を課題と思ってみたところで無駄だ。
なぜならそもそも自分自身ですら把握出来ない程、

・複雑で
・多様で
・雑多としていて
・毎日変化する
・複合的で
・理解不能な

「今の自分」

と、

・一面的で
・主観的で
・わかりやすくて
・普遍的で
・単一的で
・理解しやすい言葉でできた

誰かが啓蒙のために創った「概念」や、
自分が思い出せるだけの今眼前にないペラペラの「過去の自己イメージ」や、
人が生成する主観的な「普通の常識」などといったものとでは、そもそも、比較の指標が違うのだから、正確な比較などできるわけもないからだ。

∞である自分と、何かしらの1とか8とか33の別の指標を比較してみたところで、なんの意味があるだろう。

だが、それでも比較をしたならば、
永久に主観的な(あるいは客観的な)差分は埋まらず、自己像やアイデンティティは欠損したままとなる。

死ぬまで不足感や欠乏感は拭えない。

進歩進化進捗。

過去はよりよかった。
未来はよりよいものだ。
他人はもっとすごい、素晴らしい、常識的だ。

そんな進歩進化進捗を根拠とした意味と根拠の無い比較、否定の因習に囚われていたら、今の自分は誰が認めるのだろう。

誰が愛するのだろう。

いつ、【そこ】に到達するのだろう。


だから思う。
複雑で、変化し、捉えようのない、あるがままで美しいこの世界を、自分を、他者を、できるだけそのままで愛そうと。

 
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    【 決定した未来へ 】

    先月、無事結婚式、新婚旅行、新居への引越しが終わった。

    幸せを幸せと胸を張って言える、自分にとって人生最高の日々。

    だが最近、ふとした時に漠然とした不安や世界とのズレを感じる事があった。

    こんな幸せな時期に俺は何が不満なのだろうと、自分自身の感覚に正直戸惑いを覚えた。

    原因はなんなのだろうか。

    運動不足、生活の変化、体調不良、寝不足、終わらないタスク…。
    新しい関係の不調、妻との喧嘩、不幸への慣れからくる不安、会社の仕事の具合、実家の問題…。

    思い浮かぶそのどれも、しっくりくるものではなかった。
    正体がわからないから原因がわからない。原因がわからないからモヤモヤした不安は解消しようがない。

    今日に至るまでそれをやり過ごすしかなかった。

    そして今日、小田急線で厚木に向かう途中、赤子をあやすお母さんが向かいに座り、音楽を聴きながらそれを何気無く見やる中で、ぼんやりとその原因が輪郭を帯びてきた。

    自分の人生ははじめ、家族から
    「与えられるフェーズ」だった。

    そして、独り立ちし、母が死んだ。もう私は、一方的に誰かから何かを与えられる事はなくなった。
    だから、つい昨年までは一人で、幸せの形を、
    「見つけるフェーズ」だった。

    そして今年、結婚した。

    それは、幸せの形を二人で「作るフェーズ」に、自分の人生の目的が音もなくシフトチェンジがなされた瞬間だった。

    「一人で見つければいい」から「二人で未来を作るフェーズ」へ。そしていつか「与えるフェーズ」へ。

    これ自体は素晴らしい。
    未来がある。
    希望に満ちている。

    だが、しかし。
    生の目的が自動的にシフトチェンジしたその瞬間に、ある反対の事実も自動的に決定した。

    何かは、それを作った時点で、その存在の中に、その作ったものが老いる事、壊れる事、終わる事が内包する。

    それが怖いのだ。
    赤子を見ていて、分かった。
    全ての可能性と、親の生命の終わりをその愛らしい身体に秘めた赤子。

    それは二人でこれから作るものが必ず壊れる事、二人が必ず老いて醜くなる事、愛する人が病気で苦しむこと、自分の存在がこの世から消え去ること、死でこの愛がいつか終わる事。愛しいものは全て死ぬ事を思い出させてくれた。

    不安の正体がわからなかった理由。

    全ては生の目的が自動的に切り替わった瞬間に、自動的に決定した自分の運命だったからわからなかったんだ。

    それは、自分の意思とは関係なく、すでに決定した未来。

    その哀しさなのだ。
    死ぬのが怖い。死なれるのが怖い。
    それが、決まっているのが哀しい。


    何かを始めようと思う時に鎌首をもたげる不安の正体はこう言う事だ。


    正体はわかった。

    それに対して自分が出来ることは?

    仏教徒のように諦念をもってこれに挑むか、
    それでも、全てをわかってもまた全力で愛するか。

    前者が不可能な事は、もう既に決定している。二人で歩むと決めたのだ。
    それは全て、自分で始めた事だ。

    これから起こる哀しみも、苦しさも、辛さも、全てを覚悟して愛する事でしか、この人生は終えられない。



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      【 僕が旅に出る理由2013 】


      旅は、全く確証の無い未来に我が身を投げる、人生において数少ない行為である。

      投げる事そのものは計画ができても、投げた後何がが起こるかについては、何一つ予見する事はできない。
      この足が一本を進むその瞬間瞬間に、新しい景色が開け、それにより新しい経験をし、新しい人と出会い、新しい想いを抱く。

      つまり我々は背後の「全て」と眼前の「ゼロ」に挟まれた瞬間的な存在であり、そこには偶然もなければ可能性もない。
      村上春樹『羊をめぐる冒険』

      ゼロとすべての間にある行為が旅だ。

      <社会>:コミュニケーション可能なものの全体
      <世界>:ありとあらゆるものの全体
      宮台真司『14歳からの社会学』

      <社会>(=日常)じゃなく、<世界>に直接触れる行為、それが旅だ。

      なので、その旅の瞬間瞬間に相対としての<いつもと違う生>が、溢れる。

      良い事だけじゃない。
      アクシデントや、悪い事や、損失、その全てに自分の判断、生が絡みつき、我が生と一体化する。

      坂道を落ちる雪玉のように、(善悪に関わりなく)経験はすればするほど生にまとわりつき、経験を、人間を深くする。

      深くなった生は、今の生(日常=社会)にも影響を及ぼす。

      旅の間に深くなった生は否応なく、現実の日常の自分の生(と社会との関わり方)を比較、検討、対策、対応することを要請する。

      その事で自分の日常へと、その足りたい部分、欠落している部分をフィードバックする事ができる。

      そしてその欠落感と反省の経験が次の旅を渇望する事につながり、次の「放り投げ」へと連鎖していくのだ。

      一人なら一人の、二人なら二人の。

      未知への冒険。そして、その経験。
      それは何にも変え難い、自分だけの、そして二人だけのものである。



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        | 生と死 | comments(0) | posted by curlcord |
        【 肯定 】
        死は乗り越える事でも、
        忘れる事でも、
        逃げる事でもない。

        常にそこにあって、生の輪郭を際立たせるものだ。

        あなたがそばに居てくれたのは、とてもありがたい事で。
        ここから居なくなったのは、とても悲しい事で。

        君がここに居るのは、とても幸せな事で。
        そして二人が幸せなのは、とても嬉しい事だ。






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          【 今、わたし。 】
          何故、今を嘆く。

          何故我々は過去を崇拝し、青春を美化するのみで、<今、ここ>を卑下し軽視するのか。

          例えば音楽に明け暮れた大学の頃の四年と、今の四年。
          青春と今。
          比較すると、誰しもが今の生活の色の無さを見出すだろう。

          だが、その時間の<客観的な価値>は、等しい筈だ。
          数年前も今も<時>は等しい。
          ならば<時>は客観的に時は同じ価値を持つはずだ。

          いや更にいうなれば、各個人の中に記憶として凍り付いて動かない<過去>と等価に、いや本来ならそれ以上に、
          <今>はその一瞬一瞬のその豊かな可能性的多様性において、光り輝き、生に溢れ、素晴らしい。

          上記のような客観的状況があるにもかかわらず、過去と今、その問題で悩むとすれば、
          その時間軸で変わったのは、時の受容体側。
          つまりわたしだ。
          主体だ。

          世界を観測するのは、私ひとりしかいない。
          そして、その観測の仕方は私自身に任されている。
          その事実を悲観せず受け止め、逆手にとって自ら選択し、行動し、自らを新しい世界に置く。

          僕らは、今からでも何度でも何回でも何百回でも、自ら望めば、選択すれば、素晴らしい瞬間に出会える筈だ。

          ではいつ、その果実を摘み取るのか。

          過去ではない、未来でもない。
          それは今だ。

          「過去の自分」に耽溺したり、「未来の自分」を最優先するために、今の自分と時間を蔑ろにするほど馬鹿な事はない。

          【かって幸せだった自分】
            や
          【いつか幸せになる自分】

          を夢見るのは終わりにしよう。


          今、人生の芳醇を積極的に味わおう。


          今、
          わたしが、大事な人に会いに行こう。
          今、
          わたしが、美しい世界を見に行こう。




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            【 母の日 】
            「母の日」というフレーズが、こんなに胸を刺す日がくるとは。

            どれだけ感謝し尽くしても、その言葉はもう届かない。

            そのフレーズを目にする度、耳にする度、不可逆な時間に小さい絶望が胸を刺す。




            まだ間に合う人。
            今、大事にしてあげてね。
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              | 生と死 | comments(0) | posted by curlcord |
              【 手 】
              母の死を経てから最近特に感じるようになったのは、「時」の存在だ。

              こうなるまで、何故か感覚として「過去」も僕の側にいるような、過去が味方にあるような、
              そんな直感を持っていた。

              だが、それは違った。

              ある強烈な一点を意識した時、高速で走る電車に乗っている時のように、
              遥か後方にその一点(あの病室)があるように感じる。

              時は走り去るし、僕も走っている。

              それを意識した時、過去はもう戻らない点であり、今に至る不可逆な線でもあると「識る」事ができた。


              遠く離れた過去は物質としてなんの意味も持たない。
              僕の頭の中にある、感傷だ。

              あらゆる過去は、今生きている人間の頭の中にしか無い。
              書物も、建築も、歴史も、認識されるまではただの紙であり、石であり、想像だ。


              だからいや、今も、あらゆる価値は、人の、いや自分の頭の中にあるんだ。

              だから、人は短い人生の最後の瞬間には、頭の中にあるものしか持っていることができない。
              どんなにその人生が幸せでも、人に認められても、立派な家を建てても、満足のする作品を残してもその成果を死の向こう側に持っていくことは出来ない。

              だから、僕は、死ぬ少し手前、苦痛を感じながら、死に怯えながら、最期に意識が消失するその時には、他人に迷惑をかけない保証の出来る金と、たくさんの思い出と、それらによる自分自身の納得があればいいと思う。

              それがあれば一人で逝く孤独と、胸に去来する寂しさと、恐怖と、戦えるだろうか。
              今はわからないけど、無いよりはマシだ。



              僕はジョブズでもなんでもないから、直ぐにその境地にたどり着くのは無理だ。

              だが、たとえ一歩づつでも、後ろ向きでも、いびつでも、ひねくれていても、
              その状態を作ることができるのは、

              他でもない、今、キーボードを売っているこの手だ。
              そしてそれを支えている二本の腕だ。

              今、この記事を読んでいるその目だ。

              “わたし”だ。


              全部が自分に返ってくる。

              “人は生きたようにしか死ねない”
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                | 生と死 | comments(0) | posted by curlcord |
                【 人は生きてきたようにしか死ねない 】
                以前のエントリーにて載せた一節が、胸にまた去来したので再掲。


                母親の闘病の助けになればと、日々論文を漁る中で偶然見つけた名もない、PDFファイル。

                ・「ホスピスケアにおける心理学的問題」
                http://p.tl/rs5l
                ※PDF注意
                ・本ページ
                http://ci.nii.ac.jp/naid/110002785223


                装飾を排除した、生と死の実態が当時と違った感覚で、感じ取れる。


                その末尾。
                学術論文としてはあまりに詩的な、哲学的な一節。



                1.人は生きてきたようにしか現実をみることができない
                2.人は生きてきたようにしか学べない
                3.人は生きてきたようにしか自分と出会えない
                4.人は生きてようにしか体験できない
                5.人は生きてきたようにしか幸福になれない
                6.人は生きてきたようにしか死ねない



                何万人という死の凝縮した一滴のような一節。


                「死と太陽は直視できない。」
                読むのは辛いけど、是非ご一読を。

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                  | 生と死 | comments(0) | posted by curlcord |
                  【 選択と判断 】
                  昨年の記事
                  http://curlcord.jugem.jp/?eid=274#comments
                  で、僕は

                  >今年はきっと母と向きあう年になる。

                  と書いた、結果そうなって、
                  最終的に僕と母の一年は最悪な結末で幕を閉じることになった。

                  また、そのエントリーの中でこう書いていた。

                  >死や病に関しての自分の中でのスタンスを決め込むことができた。

                  こんなのは机上の空論にすぎなかった。
                  実際の死の前では、スタンスなんてまさに砂上の楼閣だった。

                  死は怖い、死は暗い、死は美しくない、死は苦しい、死は逃れられない。

                  そのことがわかった。

                  また、

                  >逃げずに、悲観せずに、楽しみ、自制する。

                  とも書いた。
                  果たして
                  逃げなかっただろうか?
                  ちゃんと向き合っただろうか?
                  母の支えになれただろうか?

                  母は寂しい想いをしなかっただろうか?
                  あの時の自分のあの発言は母を傷つけなかっただろうか?
                  あの夜の決断は間違えていなかっただろうか?


                  その問いに答えてくれる母はもう居ない。


                  きっとずっと、問い続けるのだろう。
                  やれることはやったんだという自分と、
                  もっとできたんじゃないかという自分と。

                  この二年間、やれることはやったんだという自分と。
                  意識を失う前の最期の数週間を会社終わってからも行けたんじゃないか、もっとできたんじゃないか、実は逃げんたんじゃないかと内なる自分が自分を責める自分と。


                  その煩悶はきっとずっと続くし、続くべきだと思う。
                  それはきっとたったひとりで。



                  判然としない疑問結論の中で、ただひとつ分かっていることは、過去に自分はそう判断し動いたということ。
                  そして過去を挽回できるチャンスはもう二度とやってこない事。


                  だから過去の過失に囚われるのでは無く、そういう選択をしたという強い自分も弱い自分も含めた自分とき合おう。


                  そうして自分と外の世界をよりよい形で変えていこう。
                  自分の選択に、自信を持てるような環境と論理を形成しよう。

                  それが、多分あの息子思いの母の望んでいる事だろう。と、薄っすら信じて。
                  0
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                    【 減算 】
                     ●
                    大事な人が亡くなった瞬間、その悲しみはピークに達する。
                    そして、時が経つにつれ悲しみは(時として乱高下しながら)、ゆるやかに下降線を描きながら小さくなっていく。

                    「死と太陽は直視できない」とフーコーが言ったのは、何も本人だけでなく、遺族にも他者にも当てはまる。
                    毎日の仕事、作業、娯楽の中で、毎日片時も欠かさず、死を意識し続けていることは難しい。

                    「この人は親を亡くした人なんだな」
                    「僕は親を亡くした人間だ」といつまでも表明し続ける事はできない。
                    死は生活に持ち込めない。

                    だから母の死なんてなかったように、僕の周りの人達は僕に笑顔で接する。
                    僕も笑顔でそれに返す。

                    その度胸がチクリと痛む。

                    その痛みを誤魔化したり続くと、痛むことすら少なくなっていくことに気づく。
                    すると、僕の心に声がする。

                    「お前にとって母の存在はその程度だったのか」

                    と。



                    宗教を介さない素朴な
                    「故人を思う事」は、
                    死に対する一般的な倫理観を下敷きにすると、下記の命題が成り立つ。

                    命題A:倫理観「命は何よりも重い」=「命の優先順位は最上位で在るべき」=「命を軽んじる奴は悪い」
                    命題B:他者を思う気持ち「自分だったら忘れてほしくはない」=「忘れられた人は悲しいに違いない」
                    命題C:事実「自分は死を忘れていく」
                    命題D:「故人は命題ABを否定しない」

                    すると、上記命題ABCDが繋がって、
                    「死を忘れる自分」は「忘れられた人を悲しませて」いて、「命を最優先課題で考えない」、「命を軽んじる悪いやつ」
                    となる。
                    これが罪悪感の正体だ。
                    亡くなった母が蘇って否定でもしてくれない限り、この円環は僕が死んで僕という主体が消滅するか、、或いは完全に感覚が麻痺するまで止まることは無い。

                    まあ、要は僕は薄情な奴なのだ、とここに告白することで楽になろうとしているのである。



                    故人を思うことと、生者が普通に生活をする事との間には、
                    死者との対話が不可能であるという点に於いて、絶望的なほどに深い溝がある。
                    空に向かって、問うてみても、すがってみても、懺悔してみても何も、無い。
                    そこには自意識があるだけで、その自意識すらいつか他者に忘れられる。


                    人は生き、大事な人を亡くし、楽しみ、故人を忘れ、そして自らも死に、世界に忘れられる。



                    ●生きるという事の、死ぬという事の本質が、「忘れる」という事であるなら、
                     僕は、その「存在の耐えられない軽さ」を直視できない。


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