狭く屈折あり

【 「原子力政策及び、反原発デモに対しての自らの立場」と「国会前デモに行ってみて思ったこと」 】
A.原発反対デモ参加前の「原子力政策及び、反原発デモに対しての自らの立場」

■デモについて〜国民の権利と義務
デモは憲法21条で認められている国民に与えられている(自由権に基づく)権利であるからして、
その行為そのものや内容に関しての是非は問題じゃない。

■デモの自由と意義
人間固有の自然権の一部として、ジョン・ロックのいう抵抗権は
権力に対する民衆の意思疎通として意義は在る。

■デモの目的
デモという行為や内容そのものに関して問題が無いとすると、では何故デモをするのか?という動機と目的が重要になる。
(デモは暴力的デモと非暴力的なデモに分けられるが、ここでは暴力的デモは論外とする)
非暴力デモの目的はその理念に基づいた行動によって世論を動かすことだ。
世論を動かし、政治体制を変え、法を変え、法の支配によって行政を変え、世の中を変えることだ。

■急進と段階
現在の反原発派はひとまとまりの思想を持たない。
大きく分けて3つ

1.急進的反原発派
2.段階的反原発派
3.なんとなくやめたほうがいいと思っている派(大多数)

これには大きな隔たりがある。
前者にもピンキリがあるが、彼らが言いたいことは基本的には「原発やめろ、さもなくば悪」という事。
これでは客観的で現実的な議論はできない。
2.は(私は2.の立場をとる)、まずどうやってやめるかの手続きとステップ論をメリット・デメリットに照らし合わせて考える。

■かつてのデモ、派閥と内ゲバ
かって日本で巻き起こった日本の自治を取り戻そうと起こった学生運動は、過激派と穏健派のセクトに別れて内ゲバが起きて崩壊した。
今の原発を振り返って見るに、1.からみたら2.は生ぬるいと思うし、2.からみたら非論理的だと思うし、3.からみたら「あいつらちょっと…」っていう感じに映っている。
かっての学生運動と同じような対立状況にあるのではないだろうか。

■現在のデモの反目的性
その二者対立の<弱い内ゲバ>の構造が、外から内からみた時にデモの最終目的であるところの
「世論を動かし、政治体制を変え、法を変え、法の支配によって行政を変え、世の中を変える」
という目的を阻害している。
特に多数であり政治的力を最も持っている3.の人たちに対して。

では歴史を知り、過去に起きたことと同じ轍を踏まないために、自分が現実的にどういう立場をとりうるのか。

■デモと手段の溝
デモは世論を動かすことが目的だ。
では世論を動かしてどうしたいのか?

原発を止めたい。

止めるにはどうしたらいいのか?

普通は、電気事業法を変えるとなる。

日本は法治国家だからだ。
そのためには?

もちろん、政治を変えないといけない。

ただ、今のデモにはその目的に対する指向性がない。

手段が目的化している。
デモをやることが目的化していて、手段を間違えている。

指向性や計画性がないのでせっかく起こした世論の受け皿がないのだ。


■本質的な問題と経済と法の支配
この国の本質的な問題は、

・官僚による支配構造
・高齢化による経済の衰退
・世代間格差

だ。
電力政策の問題も上記に集約される。
(というか、反原発もその一部でしか無い。)

原発がなくても火力によって電力はまかなえるかもしれないが、
一方で燃料費は10兆円増加した。これは貿易黒字が一気に赤字になる金額だ。

毎年これが繰り返されることによるインパクトと、私たち、そして次の世代への経済の影響は
原発の暫定的な再運転のリスクと天秤にかけるべきで、それこそ国民投票や選挙を通じて審判するべきだ。

そしてもし国民がNOを突きつけたならば、それは革命でなく法の支配による行革によってでなくてはならない。


■解体と検証
今の東電は明らかに異常であるが、異常であるかすらもわからない。
彼らが彼らの利害関係に法って情報を隠匿するからだ。
ならば然るべき法的な手続きをとって、会社更生法の適用をし、電気事業法を改正し、解体し効率・合理化すべきだ。


■今とりうる最短経路
では然るべき手段とは何か。

それは、デモでなく選挙なのではないか。
国民に与えられた最高で最大の意思表示が選挙だ。

そして、現行政党で上記のようなドラスティックな改革を挙げている政党はひとつ。
維新の会及び第三極。

よって、私は彼らの活動を支援する。


■上記理屈への反駁
デモに参加したことがない以上、上記のような一見客観的な議論を振りかざしても
それは推論でしか無い。

上記1.2.の対立や、それを利用する存在が本当に無いのか、どういう人達がデモに来ていて何を叫んでいるのか知らないと
みずらからの身体を投げ出すことによって、体験しないと意味すら無いし反駁する資格もない。

行ってみなければ分からないということで、自分を投企してみた。



B.「国会前デモに行ってみて思ったこと」

■特定利益集団の存在について
団体職員や党員は、大抵は一目観てわかるなりをしているものだ。
大体、高齢者で謎のジャンパーを羽織って、精気のない顔をしている<あの>人たちだ。

だが、国会前デモは違った。
中には明らかなプロ市民も居たが、ほとんどは何の変哲もない市民だ。

■参加者について
会社帰りのサラリーマン。若いカップル。主婦っぽい人。学生。
そんな明らかに普通の人達が、何万人と集まってシュプレヒコールを上げている。

確かにこれは、戦後かつてない市民によるデモである。

■市民によるデモの意義
ネットで批判しているだけではこの光景は目にできない。
きっと何時まで経っても信じることはできないだろう。

市民による純然たるデモが毎週末、これだけの規模で起こっている事を。
あの大人しい日本人が怒りの、抗議の声を上げていることを。

私は胸が熱くなり、一種の感動すら覚えた。

■シュプレヒコールに潜む「臭さ」
だが、しかしシュプレヒコールの只中に入ってみて分かったことはそれだけじゃなかった。
それは政治活動につきまとう、「臭さ」だ。

雨のシュプレヒコールの熱狂の渦の中で私はその臭気に鼻が曲がりそうだった。
確かに、そこは心地良い。
政府は間違えている。東電は悪い。
叫び声を上げる。
正しいのは私だ。と。

■「臭さ」の正体
だが、本当にそれでそれでいいのか。

ふと横を見ると、豪雨の中乳母車を引いた人たちの一団が涙目で叫んでいる。
赤ちゃんは困惑しながら泣いている。

気にもとめずに叫ぶ。

私はそこに臭さの正体をみた。
それは、自己愛だ。


■歴史との同一化の快感と良心の疚しさ
確かに、集団の中で個が政治活動をすることは気持ちがいい。
ひょっとしたら自分の力がこの国を変えるかもしれない。
マルクスがいう歴史への意思だ。

それは純然たる「私は今正しいことをしている」という良心なのだろう。

だが、電力政策という国策に対し自己愛において他者を強制的に巻き込む限り、
(乳母車の中の赤子という象徴がなくとも)
それはエゴである。

私はそこに良心の疚しさを感じる。

ニーチェは
「力なき者のルサンチマンが、外へ向けて放出されず内へ向けられるとき、それが『良心の疚しさ』となる。」

と看破したが、
その手段から臭う良心の疚しさが私個人としては、耐えられないのだ。


■デモには細やかな意志が反映されない
デモには集団として一つのメッセージが重要視されるため、個人の意志は反映されない。
そこには私のこうした細やかな意思決定のプロセスは反映されないし、無視される。
細やかなプロセスや議論にこそ重要性があると思う、私の思考はやはりデモには相容れないのだ。


■公の私と個人の私
つまり、公である私は市民による純然たるデモに好感を持ち、肯定しつつも、
個人としての私は「屈折した自己表現」を私は反原発デモに見出し、そこに参加しないことを選択したのである。


■歴史に積極的に関わらない意志
なので私はデモを拒否したが、否定しない。
寧ろ、もっとやればいい。大きくなればいいと思う。
それが、歴史だ。
だが私は歴史には関わらない。その選択をしたまでだ。


■こうして
ようやくこの問題にひとつの終止符をうち、
千年後に爆発するかもしれない原発より、目下最大の問題であるところの「自分」と向き合いつつ、
次の選挙で確実に投票するのを待つまでに至ったのである。
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    | 政治 | comments(0) | posted by curlcord |
    【 選択と責任 】
     いよいよ、あと10日前後で衆議院選挙が始まる。

    民法各局はこれでもかってくらい劇場版の特番を放送する。
    フジテレビにいたっては、アヤパン+クリステル×ターミネーターだ(一周してちょっとみたいもん)。


    ここまで必死に何年もかけてマスコミがお膳立てした、政権選択劇のフィナーレとして、相応しいと言える「お祭り」だ。

    これだけ番組をつくりスポンサーもついて、広告代理店も動いているということは、政権交代を前提とした出来レースなんじゃないかって(そんな企画書がどっかに存在してるんじゃないかって)、うがった目でも見たくなる。





    実は、最近の(ここ数ヶ月の)報道や、情報の空気が僕としてはすごく気持ち悪い。
    自民擁護/民主批判が言いにくい雰囲気。
    いや、もっというと政策論や、政策評価も言いにくい雰囲気。
    特定政党に対する沈黙の螺旋という問題ではなく、政策論/政策評価への発言に対しても同様の過程が起こっているような、そんな空気である。

    本来、政党は各個人が政党のマニフェストを比較し、各個人の生活/収入/年代/信条/信念に照らし合わせて、エゴや利害の交渉を政党に委託するものだ。

    新婚の家庭があったとして、それで
    「子育て支援に魅力を感じて投票する。」
    っていうのはまだいい。

    なんとなく

    「自民党が駄目だから、試しに民主党にやらせてみたい」
    「自民党にお灸を添えるために、民主党に投票したい」
    「一回やらせてみて、駄目だったらまた自民党に戻せばよい」
    「自民党一党が長く政権を取りすぎた」
    「とにかく一度政権交代させればなにかがかわる」
    「それこそが二大政党制のあるべき姿だ」

    が多すぎる。
    雰囲気で政党を決めては駄目だ。
    雰囲気を恐れたら駄目だ。



    よく新聞を読まない人は(読んでいる人ですら!)麻生政権は何もやってないといわれるが下記の実績が麻生内閣にはあった(2ちゃんからの引用だけど)。

    ---------------ここから---------------------

    【麻生が首相になってやったもの】
        ・一次補正(済み)
        ・金融機能強化法案関連(済み)
        ・日本領海拡大(済み)
        ・国連演説
        ・ワープアを正社員にした場合の補助
        ・テロ特措(海賊支援野党の参議院の反対で通過せず)
        ・派遣法改正(野党の反対で通貨せず)
        ・IMFへ外貨準備高から10兆円貸し出し
        (民主はなぜかこのドル不安の中で準備高削ってドル売り宣言)

        ・二国間の経済支援要請をすべて拒否、今のところアイスランドと韓国×
        (民主IMF批判してたが、なぜか特定国への2国間支援表明)

        ・ASEAN+3の通貨スワップ拡大を話していくことで合意、つまり韓国支援なし
        ・空売り、市場監視等強化
        ・政府が銀行のマネーロンダリングへの対応の甘さを指摘
         その翌日から、数件の経済ヤクザの逮捕

        ・G7での行動指針採択
        ・G20にて金融市場の透明化で共同合意
        ・日印安全保障協力共同宣言
         (民主小沢寝不足の為、シン首相との会談キャンセル
          <翌日青森で選挙の為の演説は実施>)

        ・朝鮮総連強制捜査(数十年脱税疑惑があったが放置されてきた在日商工会にメス)
        ・アーレフのガサ入れ
        ・革マル派の活動家ら11人逮捕
        ・大麻や麻薬等の摘発が増加 動いているのは厚生省の麻薬取締課、通称マトリ

    ---------------ここまで---------------------

    上記だけでも、十分な実績じゃないだろうか?
    大して、民主党には何の実績もない。
    これは大きい。

    僕が民主党政権下で一番問題だと思っている、外国人参政権については
    http://www.nishiokanji.jp/blog/?p=862
    が参考になるので是非ご一読を。
    国家の存続にもかかわる問題なので。

    マニフェスト比較の詳細は
    http://sankei.jp.msn.com/politics/election/090731/elc0907312132009-n1.htm
    が参考になったこちらもご一読を。






    今年の夏は、今後10年を決める選挙だ。


    すごく自民信者みたいな事を書いたけど、まだ、実は迷ってる。
    足りない頭でうんうん、考えている。

    みんなとりあえず、選挙には行こう。
    そして、自分の頭で考えて、自分の足で投票所に行き、自分の手で投票しよう。


    10年後の税金、安全、生活。

    その責任は自分にあるのだから。
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      | 政治 | comments(4) | posted by curlcord |
      【 光あるうちに光の中を歩め 】
       今日は珍しく政治のことについて。

       リバタニアリズムという概念がある。
       リベラルとコンサバティブの中間にある思想で、政治的決定を市民に委ねるといった面で民主的でかついかなる国家も基本的人権を侵害できないという側面からみると自由主義的な発想を持ち、また、ナショナリズムからの決別や経済的自由の強度という点からみると保守派とも一線を隠す思想である。
       裁判は民営化し、国籍は廃止、課税を最小限度に、多民族の混合、自由経済市場には不介入などといった既存の国家とはなにか?という「国」の形を問い直す、画期的思想形態なのだそうだ。
       このリベラリズムを説く「リバタリアン」達はこれこそが世界からあらゆる不幸を取り除き、最大多数の最大幸福を体現する理想の国家形態であると息を捲く。
       僕は最初ふんふん確かにと思いながら今日これについての本を読んでいたのだが、その帰り、いつもの本屋さんでツァラトゥストラの下巻を買ったかえり、今月のロッキンオンを立ち読みして、昔、目から出ていたはずの鱗が知らずにたまっていてそれを無理やり掻きだされるようにいろいろなことを再び思い起こされた。
       レイジとクラッシュとジョンレノンとパブリックエネミーのテキストだったのだが特にレイジとPEのテキストに感銘を受けた。(こんなことを言うと怒る人もいると思うけどクラッシュの思想はあまり興味がない。幼いから。)
       音楽で世界を本気で変えようと思い、完璧に理論武装した彼らは実際の死の危険を覚悟の上、現在のどうにもならない圧制や差別と戦っていた。一滴の血も流さないで(そんなことないかw)。(誤りもたくさんあるけどw)
       差別や、虐殺は現実の問題としてそこにある。それらの温床である多国籍企業やグローバリズムの搾取は僕達も共犯者である。それらは自由経済が生んだ膿であり、人間のエゴの集合体でもある、実際の悲劇である。現実である。
       そんな世界にあって、「リバタニアリズム」?!ちゃんちゃらおかしいよあんた達。そんなこといえるのはあんたたちが暖かい暖房のきいた家でスナックをぼりぼり食ってコーヒーなんかすすってぶくぶく太りながらうつらうつらと考えれるからだよ。
       家族の死や、人権の侵害がひたひたと忍び寄ってくるすぐ裏でそんなこたあいえないよ。というような彼らの声が聞こえてくるような気がして、甘ったれた考えに賛同しかけた自分の浅はかさに少々恥ずかしくなった。
       まず、そういった諸問題をどうにかする術を考えていき、そこからが理論の実践をはかるべきだろう。少なくともそれまではこれら頭のよろしい「リバタリアン」たちの言っている理論は机上の空論、いや、プレミアチケットつきのノアの箱舟に過ぎないのではないだろうか。
       日本は表立った差別もないし、殺戮も他人が遠いところでやっていることだし、だからリベタリアン見たいな理想主義者の人間がふえるんだろうなあとおもった。
       怒りが、反発がない。だから音楽も腐敗していくんだなって、愛とか友情しか歌えないような社会は逆に駄目になると僕は思った。精神のホルマリン漬けである。
       だからといって闘争が必要なのか?
       もうよくわからないがひとつだけいえるのは、人間はかくも醜く、かくも業深い生き物であるということだけである。

       
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        | 政治 | comments(0) | posted by curlcord |
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